「梅都」は明治時代後期より続く由緒ある蝋型鋳物師の名跡です。
梅都工房の製造技術は師匠から弟子へ、そして父から子に代々と受け継がれてきました。
ここでは梅都の名跡を伝える山本家の蝋型鋳造の歴史をご紹介致します。
これは形式張った堅苦しい歴史ではなく人間味に溢れた一つの家族の物語です。
鋳物師の初代 梅都 山本寅次郎(1880~1945)は京都市東山本町界隈にて鋳物製造業に従事しておりました。
当時の東山本町通りは、伏見・奈良に続く街道として栄えており様々な商工業の店舗であふれていたとのことです。
東山本町は元来周辺に寺社が多く戦国時代/安土桃山時代より、銅鐘・金具・仏具の製造が盛んでした。そのため界隈には多くの鋳物師が住んでいたと言われています。
山本寅次郎は1904年に日露戦争に陸軍歩兵として従軍し、白兵戦での銃弾の嵐の中、幸運にも生還しました。
寅次郎は執着の薄い人柄であり「わしが死んだら骨は屁で飛ばせ」と周囲に語っていたといいます。単に寅次郎の性格から出た発言かもしれませんが、同時に、日本ロシア双方に何万人という犠牲者を出した悲惨な総力戦争が当時の日本人の、そして帰還した兵士の精神をいかに苦しめたのか、想像に難くありません。
日露戦争の勝利という栄光の裏に、夫、父、兄弟、息子を亡くす悲しみ、また戦費の捻出による家計の圧迫という二重苦が日本の家庭を苦しめました。
日本に帰国後、寅次郎は息子を授かりました。この息子が二代目梅都となる梅次郎(1905~1984)です。

初代梅都 山本 寅次郎

二代目梅都 山本 梅次郎の青年時代
梅次郎は父寅次郎のもとで修行し腕の良い蝋型鋳造職人になりました。腕は良いが「宵越しの金は持たない」という典型的な職人気質により常に貧乏だったようです。
※妻お秀の話では、結婚して梅次郎の家に入ると下駄箱と下駄一足しかなかった、とのことです。
また、今となっては考えられないことですが当時は合法の遊郭などもあったため、梅次郎がそのような店のお世話になったという話も伝わっています。
梅次郎は1937年、日中戦争に陸軍砲兵部隊の工兵として従軍しました。
金属の扱いに長けていた梅次郎は各種兵器の修理を器用にこなしたとのことです。日本軍の戦術・練度については不満もあったようで、本人が語った皮肉を込めた洒落が言い伝わっています。
太平洋戦争の終戦前、梅次郎は無事に帰国しました。梅次郎は第一子の男子(勝弘)を授かり、その後も第二子(嘉夫)、第三子(信夫)、第四子(茂夫)と立て続けに男子を授かりました。
父寅次郎は終戦後すぐに亡くなりました。

二代目梅都 山本 梅次郎の日中戦争出征時

やま出金物店は、現在の京都市下京区大宮七条西入る の北側(現在のみずほ銀行の付近)にありました。梅次郎の好みにより夜中まで煌々とネオンが輝く非常に派手な店構えだったとのことです。
敗戦の疲弊で日本全体に物資がなく、また元来の貧乏も相まって極貧生活を送っていた梅次郎は思いたち商売を始めることにしました。
やま出金物店という商店でした。1950年頃のことです。
当時の梅次郎に店を出す資金はなく借入で調達しました。喧嘩っ早く気の荒い梅次郎は、機嫌の悪い時には借入金の回収担当者を怒鳴り散らして追い返したことがある、という逸話が残っています。(回収担当者の方には非常に気の毒なことですが…)
任侠の親分から用心棒として声をかけられたことがあるほど梅次郎は血の気が盛んだったという話です。
※妻お秀の懇願によりカタギに踏みとどまったそうです。
梅次郎の妻お秀の商売上手のおかげで、やま出金物店は大繁盛し利益が出るようになりました。当時の家庭としては「お金持ち」と言っても良いぐらいの生活で、テレビなど常に最新の家電が揃っていたといいます。
その半面、妻お秀にお株を奪われ居場所をなくした梅次郎は日々腐ってゆき、昼間からパチンコ店に入り浸るようになりました。もともと激しい気性で夫婦喧嘩が多かったそうですが、度重なる喧嘩でついにはお秀が家を飛び出して別居し、新たな店舗「やま出金物店 二号店」を出店しました。
当時まだ20歳にも満たない息子達は母が恋しく、週末には母お秀の家に通ったとのことです。

やま出金物店 二号店は京都市上京区の堀川一条あたりにあったとのことです。

腕の良い蝋型鋳造職人であった梅次郎は蝋型鋳造会社「都蝋型」を設立し二代目梅都として自らの工芸品を世に問いました。
高度経済成長期を経て物資が行きわたり皆が豊かになってきた頃、梅次郎は次第に金物屋に見切りを付け、都蝋型という鋳物調度品の製作会社を設立しました。1965年頃のことです。
都蝋型は父寅次郎から受け継いだ伝統的な蝋型鋳造法により、デザイン、蝋型作り、鋳造、仕上の全てを一貫して行う会社です。金物屋は生活必需品を扱いますが、都蝋型は置物や仏具など富裕層向けの工芸品を扱います。
都蝋型は梅次郎の蝋型鋳造師としての腕に加え、高度経済成長による好景気が後押しして一定の成功を収めました。
四人の息子達はやがて、家業として都蝋型の仕事に従事するようになりました。とりわけ次男の嘉夫は、早くから蝋型の才能を見せました。嘉夫はいずれ三代目梅都の名跡を受け継ぐことになります。
都蝋型の設立の際十分な資金がなかったため梅次郎は出資者を募りましたが、設立の条件が大変厳しいものでした。利益の多くを出資者に配当する形の契約になっていたとのことです。
1975年、嘉夫が一念発起し新たな会社として京都銅器工芸を設立しました。嘉夫は会社代表兼三代目梅都として商売を切り盛りしました。
バブル経済も追い風となり商売は大繁盛し、嘉夫を含む兄弟全員がマイホームを持つことができました。
勝弘、嘉夫、信夫に立て続けに子供が生まれ一族は賑やかになりました。そして、1980年にお秀が、1984年に梅次郎が、戦前・戦後と大変な時期を走り抜け最後は沢山の孫という幸せに恵まれて亡くなりました。

梅次郎から蝋型鋳造を学ぶ息子達

晩年の梅次郎と妻お秀。梅次郎の激情に対してお秀はとても優しい母親だったとのことです。

鋳物の仕上げを行う次男嘉夫

若かりし次男嘉夫(右)と四男茂夫(左)
高度経済成長からバブル経済を経て日本は豊かになり、一億総中流と言われたように大衆の生活水準は一斉に向上しました。
これはもちろん日本にとって良いことだったのですが、同時に人々の心も変わりました。より高性能な家電、自動車、海外旅行、ブランド品…伝統的な日本の文化を否定するかのように、欧米式の、機械製の、コンピューター式の、という類の製品やサービスが好まれるようになりました。
その反面、都蝋型や京都銅器工芸が生み出してきた伝統的意匠の置き物や仏具、あるいは干支置き物などの縁起物に対する需要は、日本人の心の中から徐々になくなってゆきました。
それに追い打ちをかけるように1990年頃にバブル経済が崩壊し日本は長期的な不況とデフレに見舞われました。金属工芸品という、一般的に見れば生活必需品ではなくむしろ趣味・嗜好品に属する製品に目を向ける余裕が日本から失われてゆきました。
多くの伝統工芸産業と同じように京都銅器工芸も大幅にダメージを受け、会社存続の危機を迎えました。今までの習慣・方法・成功事例に則っていたのでは会社を存続すること―兄弟四人全員の家計を支えること―が難しい状況になっていました。
代々受け継がれてきた山本家の蝋型鋳造は変革を迫られていました。
会社存続の危機の中、三代目梅都 嘉夫は根付やイヤリングなどの小さな製品に目を付けました。山本家の蝋型鋳造技術を活かしつつ、時代のニーズに合った製品は何か?
日本に欧米的個人主義が浸透するにつれ、人付き合いは希薄になり会社の上司、同僚や友達を家に招待することが少なくなりました。日本の家から客間がなくなり、高価な置き物は居場所を失いました。
企業においても、不況による経費削減のために高価な置き物を購入する余裕がなくなりました。
蝋型鋳造が生き残る道の一つとして嘉夫が考えたのが、人が身につける装飾品(アクセサリ)を作ることでした。これまでの蝋型鋳造のノウハウを活かし、極小で精密な、質の高い工芸品としてのアクセサリを提供できないか?
嘉夫は試行錯誤を重ねて蝋型鋳造製の「根付」や「イヤリング」を完成させ、世に問いました。これはヒット商品となり、京都銅器工芸が生き残る礎となりました。
三代梅都 山本 嘉夫の製作工房

精密な蝋製原型。実際の大きさは1~1.5cm程度。

四代目梅都 山本 茂夫

1950年頃 やま出金物店創業時の記念写真
世界はかつてないほど急速に変化しており、しかもその変化のスピードは年々早くなっているようにも見えます。
上記の変化が、日本の伝統工芸そして家業のあり方に根本的な変革の必要性を突き付けています。変化に適応できないものは高い確率で居場所をなくし、消えてしまいます。
時には諦めることも正しい判断かもしれません。バブル経済が崩壊してからここ20数年の間にたくさんの伝統工芸や家業は廃業しました。我々も同様に何度も廃業を考えたことがあります。
しかし我々は先祖が必死でつないできたこの生命と、丁寧に育み伝えてきたこの技術を日本の、そして世界の人々に役立てるために、諦めることなく家業を続けたいと考えています。
以下を経営指針としてより良い製品をお求め安い価格で、多くの人にお届けするために努力研鑽を続けて参ります。